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精神病理学

ポエムでなぜ悪い

 新しいポストに就いた政治家の発言が「ポエム過ぎる」と話題になっています。民の代表たる政治家には、具体的なヴィジョンと確実な実行力が求められているのでしょうから、抽象的で多義的、場合によっては自己陶酔的とも受け取られかねない発言に非難が集まるのも、故なきことではありません。


 このようすを見て、精神医学史におけるある議論を思い出しました。二十世紀初頭に精神医学が体系化されますが、その後不可解な精神病を解明する一つの方法論として、病をその人の生きる姿として理解しようとする「現象学的人間学」がヨーロッパを中心に隆盛し、わが国の精神医学にも大きな影響を与えました。1958年、ドイツのコンラートは精神医学のこの状況を“危機”と形容し、「精神病理学を科学として追求することの断念」と断じたうえで、「(現状を甘受するなら)われわれは研究者から詩人に変わらねばならないだろう」と嘆いています(『分裂病のはじまり』)。


 たしかに、精神医学も自然科学の一分野である限り、病態解明の具体的な方法論と治療の確実な有効性が期待されているわけです。哲学的で難解かつ思わせぶりな美文調の記述をみると、「そんなことより早く治して!」という悲痛な声が聞こえてきそうです。


 しかし、前世紀の精神医学者は、たんに自己陶酔を目的として日々思索したわけではありません。その背景には、患者に対する人間的理解が治療に必要だという信念があったはずです。患者の直接的な体験に近づこうとする現象学的手法は、近年精神医学から看護学へとフィールドを変えてきていますが、アメリカの看護理論家であるワトソン(1988)は「人間に関する経験を重点的に取り上げ徹底的に〈反省〉する場合に、詩の形以外には考えられない」と主張し、詩的表現に方法論的な可能性を見ています(『現象学的看護研究』2014年)。


 人に対して何かを成そうとするとき、その人を理解するために、私たちは自然にいろいろとイメージを膨らませています。それをそのまま文字に起こせば、もしかしたらポエムになるのかもしれません。それだけでは意味がありませんが、先入観を捨てて多様なイメージを抱くことは、これから具体的に策を練り確実にその人の役に立つための大事な基盤になるはずです。


 あらゆるものがマニュアル化され可視化される現代だからこそ、私たちがしっかりと地に足をつけて考えるために、多義的で豊かな詩的感性はつねに磨いておきたいものです。