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精神医療

からだはいろいろ

 あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いいたします。

 薬を処方したところ、患者さんから予想外の副作用が出たと言われることがしばしばあります。患者さんの訴えを聞いて、あわてて薬の説明書きを見直して、「その副作用が出る確率が1%未満と書いてあるし、めったにない症状なんですけれど」などと言い訳がましく説明しつつ、体に合わなかったことを謝りながら、別の薬を検討することになります。

 場合によっては、まったく説明書きには載っていない症状が服薬後に出たと言われることもあります。それも、けっして稀なことではありません。

 めったに出ない副作用が出ることは、「薬剤過敏性」と言われることもあります(「薬剤性過敏症症候群」は、薬剤とヒトヘルペスウイルスによって高熱などの出る特別な病気で、ここでの過敏性とはとりあえず無関係です)。あるいは、神経質な性格が影響した心身症と見なされることもあります。

 薬の添付文書は、発売前の臨床試験で限られた数の人に投与して集めたデータから作られるので、そこでは見られなかった副作用が実際の治療のなかで出たとしてもおかしくはありません。もちろん、その後の調査で、添付文書の内容は刻々と書き換えられてはいるのですけれど。

「ニューロダイバーシティ」という言葉があります(村中直人『ニューロダイバーシティの教科書』2020年)。神経発達症(いわゆる「発達障害」で、自閉スペクトラム症、注意欠如多動症、学習障害がそれに含まれます)の人は、さまざまな認知面の凸凹(得意不得意)によって、社会的な生きづらさを抱えています。

 これを「障害」=「社会的なハンディキャップ」と理解するのではなく、脳神経のあり方の個体差にすぎないと理解しようというのが、ニューロダイバーシティの考え方です。脳神経のあり方の個体差を意味するために、「ニューロ(神経)」と「ダイバーシティ(多様性)」をつなぎ合わせて「ニューロダイバーシティ」と表現したわけです。

 ニューロダイバーシティという立場から見れば、神経発達症の人の生きづらさは単なる個人差であって、生きている文化の違いだということになります。少数の文化を持つ人が多数の文化を持つ人に無理やり合わせるのはナンセンスであり、お互いの文化を理解し合いながら共存を目指すのです。

 この考え方からすれば、ある薬に対して予想外の副作用を出してしまう人も、体がたまたまそのような反応をするようにできているだけ、ということになります。「過敏性」のある人を病気や障害と特別視するのではなく、それもまた個人差だと考えて、その人の体に合った薬を探せばいいのです。もちろん、このことは薬の副作用に限りません。一番大事な薬の効果についても同じことが起こっているはずです。うまく効果が出る人もいれば、出ない人もいるわけです。

 ただし、このように薬が効いたり効かなかったりしたのでは、安心して服用することはできないでしょう。実際には、科学的な手続きのもと、多くの人に一定の効果が認められてはじめて薬は認可されますし、そのことがわかっているからこそ、医師も安心して処方しますし、患者さんも安心して服薬するのです。しかしそれでも、少数の人にとっては無効だったり、予想外の副作用が出たりするわけです。

 あらためて、私たちの体の個体差はじつは大きいということに目を向けてみたいと思います。この立場は、「ソマト(身体)」と「ダイバーシティ(多様性)」を合わせて、「ソマトダイバーシティ」と呼んでもいいかもしれません。体にも多様性があるという前提で、医療を考えるわけです。

 ソマトダイバーシティは、ニューロダイバーシティと同様に「文化差」と考えてもいいのですが、文化とは本来精神によって成り立つものなので、体を文化と説明するのも不自然です。

 そこで、体が感じている「世界」の差だと考えてみたいと思います。世界がひろびろとしているか窮屈に感じられているか、安心感があるか、何が起こるかわからず不安に満ちているか、その人にとって世界の現れ方はさまざまでしょう。一般に「性格」と言われているものも、じつは、体が感じている世界のあり方を別の方法で説明しているだけないのかもしれません。

 一人ひとりの体のあり方を尊重し、その人に合った治療、その人に合った生き方を見つけることができれば、それがすなわち、病を抱えつつよりよく生きる、ということになるのでしょう。