カテゴリー
精神病理学

「信じる」ということ

 そういえば、私が精神科医になった1990年ごろは、まだ「私は神だ」「天のお告げを聞いた」といった、宗教的なテーマをもった妄想を語る患者さんはたくさんいましたが(大宮司信著『宗教と臨床精神医学』1995、など)、最近ではあまり見なくなりました。急性の精神病状態で万能感をもったり異次元体験をしたりしても、それが神や啓示体験とは結びつくことは多くはありません。


 それは現代のわが国において、宗教への信仰がかつてより薄れているためなのかもしれません。宗教だけではなく、既存の大きな価値観を他者と共有する経験が少なくなっているようにも思います。おそらく、血統妄想が見られなくなったのも同じ理由でしょう。


 価値観が拡散し、信仰が多様化しているとはいえ、人は生きている限り、何かを敬ったり尊んだり慈しんだりしながら、日々を送っているはずです。古代では、「万物に霊魂が存在する」(アニミズム説、Tylor 1871)、「非人格的生命力がある」(プレアニミズム説、Marett 1909)、といったさまざまな宗教の原初的形態がみられたようですが、私たちの周りには世界が存在し、私がここで確かに生きているということを信じることそのものに、宗教の原点があるはずです。私たちは、誰かの誕生を喜び、誰かの不当に憤り、誰かの死には涙します。それもまた、最も広い意味での「宗教性」であり、より正確には「原宗教性」と呼んでもよいように思います。ここでは、思考によって何かの教義を「信じる」のではなく、体感として無条件に私たちが生きていることを当然のこととして「信じ」ているのです。


 現代で宗教の意味合いが多様化し希薄化しているのと同時に、「原宗教性」そのものも変化しているのを感じます。若い人たちは、つねに情報の渦に飲み込まれ、どれをつかめばよいかわからず、とりあえず周囲に同調することでなんとかその日をやりすごしています。「信じる」ことの意味も軽くなり、世の中の事がらが信じられないだけではなく、「私がここにいていいんだ」という、生きるうえで最も根本的なことが信じられない若者も少なくありません。


 家や地域共同体の力の強かった前世紀とはちがい、SNSの発展によっていくつもの「小社会」を同時に並行して生きている現代の私たちは、これまでとは別の次元の「信じる」力を育んでいく必要があるのでしょう。それが何なのかは、まだ私にはわかりません。「身体を通じて信じる」ということが、ひとつのヒントにはなりそうです。