私が精神科医になった1990年頃、若手医師のバイブルとして勧められた本のひとつに、神田橋條治先生の『精神科診断面接のコツ』があります。この本の冒頭では、初回の診察において「近い未来をいかほど言い当てるか」ということの重要性が説かれています。私は30年を経た今も、やはりこのことがつねに胸にあります。
神田橋先生は診察の際の“五感”を重視されていて、データに頼りすぎる診療のあり方に警鐘を鳴らしています。医学では「5年生存率は〇〇%」などと、遠い未来の確率は教えてくれますが、「1週間後どうなっているか」ということについては、データをとりようがなく、医師が想像するしかないわけです。その“想像”に“五感”も必要になってきます。
少し先の状態を想像する際には、症状の性質や程度だけでなく、患者が回復する力をどれだけもっていそうかを診立てる力も必要です。過去の体験や周囲の人の支えのあり方は、今のその人の困難への向き合い方にも反映されているはずです。
「近い未来」を想像することの大事さは、今困っている本人にも当てはまります。安定した生活を送っている人なら年単位の将来について考えられるでしょうけれど、今悩み苦しんでいる人は、1ヶ月先のことも、1週間先のことも、場合によっては1時間先のこともわからなくなってしまいます。
でも、今想像しにくい少し先について、たとえば3日先のことはイメージできても1週間先のことはわからないと思っている人では、ちょっとがんばって1週間先について想像してみます。すぐにわかる未来より少しだけ先を想像しようとすると、今の状況から1歩下がって全体を見渡すしかないのですが、ここに冷静さが生まれます。冷静さは、隠れている回復力が表に出てくるきっかけを与えてくれるかもしれません。けっして遠い先のことは考えず、「ほんの少し先」ということがポイントです。
今は新型コロナウイルスに、世界中が翻弄されています。重苦しい空気が漂い、ストレスは他者への攻撃を生み出し、みんなの心に無用な傷を増やします。ほんの少し先を想像しながら、今すべきことをしっかりと行い、そして世界の回復力を信じて、今の困難を乗り切りたいものです。