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精神病理学

いくつもの”顔”を生きる

 小説『空白を満たしなさい』(2012年)では、あるべき自己像に囚われて日々身を削り、自死にまで追いやられてしまった主人公が描かれています。若者(15歳~34歳)の自死率を比較すると、イギリス、イタリア、ドイツ、フランスでは10万人あたり6.6人から9.3人、アメリカでも12.8人なのに対して、日本は18.1人と圧倒的に高い数値を示しています(厚生労働省 令和元年版「自殺対策白書」)。これまでの私たちは、自分の理想像を掲げてそれに向かって生きることを推奨され、無理やり“自分探し”を強いられてきたことが、その背景にあるのかもしれません。


 著者の平野啓一郎さんは、その打開策として、「ひとつの人生を生きる」ことを目指した「個人主義」ではなく、「いくつもの自分を生きていい」と考える「分人主義」というものを提唱しました(『私とは何か―「個人」から「分人」へ』、2012年)。たしかに私たちは、社会で見せる顔、家庭で見せる顔、趣味のときの顔、さまざまな顔を持っていて当然なのですが、それを“裏表がある”ようで後ろめたく感じてしまうのも事実です。堂々といろんな顔を生きればいい、というわけです。


 しかし一部の若者は、“分人主義”をすでに体現しているかのように見えます。それは、SNSを介してのことです。自分の姿を隠し、場合によっては名を隠して、それぞれのツールに応じた情報を発信し続けることで、それに見合った“顔”を作り上げていきます。ただ、複数の顔を持つことで、若者たちが自由にのびのびと生きられているのかどうかは、やはり疑問です。今度はいくつもの顔を作ることに囚われて、息苦しくなっているようにも見えます。


 分人主義が私たちの人生を豊かにする本来の意味を持つのは、いくつもの顔を持つ“私”がここにたしかに存在するという実感を伴う場合ではないでしょうか。いろんな自分について、確固たる“メタ的”な自分(フッサールの「超越論的自我」でもいいですし、私はかつてそれを「主体的自己」と呼びました)がそれらをしっかりと眺められていることが重要なように思われます。SNSでいくつもの顔を作り上げたとしても、それを統合する“自分”の機能がうまく働くか否かで、その生き方が自分にふさわしいかどうかが決まってくるのかもしれません。


 これからは、私たち一人ひとりが、豊かに自分らしい分人を生きる方法を探していく必要がありそうです。