摂食症(摂食障害)が依存/嗜癖ではないかという議論は、ずっと以前からあります。当事者としては、とくに過食については依存と考えるのが自然だったのでしょう、1960年代にはすでにアメリカでアルコール依存と同様の自助グループが作られて、今も続いています。今世紀に入って脳科学の進歩によって、過食症患者にアルコールや薬物依存者と同様の脳の報酬系の感受性亢進(あとのことを考えず目先の快刺激を優先的に求めてしまうこと)が示され、「食物依存」「糖質依存」といった言葉も登場しました(de Vries 2016)。
ただし臨床家のあいだでは、「アルコール依存は好きなお酒がやめられないけれど、摂食症の過食はいやなこと」「過食は決まった食べ物ばかり食べるわけではない」などの理由で摂食症は依存症ではないという意見が多く(Fairburn 2013)、依存症治療のための自助グループだけでは治療効果には限界があることも指摘されています。
もっとも、この間特定の物質だけではなく、ギャンブルや買い物など行動についても依存があることが知られてきましたし、依存を広く「ストレスに対して物質摂取や行動でその場限りの対処する習慣が形成されていること」と考えれば、摂食症の人がさまざまなストレスを自分流のこだわりで回避していることは、依存と見なせなくもありません。
その原点には、最初にやせ始めたときに、これまでのつらさがすべて解消されたかのような、達成感、満足感、解放感を味わうという特別な体験があったのではないでしょうか。そのような “やせ体験” に対する依存によって、摂食症の人はやせを求めることから抜けることができず、こだわりを増やしたり反動としての過食に悩んだりしているのではないでしょうか。そう考えれば、拒食でも過食でも摂食症の人は、“やせ依存” に悩んでいると言えそうです。
依存が続けば、一般にストレスに対処する力が弱くなり、自己評価も下がり、依存行動が最優先されるため社会的に孤立する傾向にありますが、これらはすべて摂食症に当てはまります。また、摂食症を依存と見なすことで、もともと何かに依存しなければいけないくらい心の守りが薄く、不安のなかで生きてきたことが理解しやすくなります。脳の感受性じたいが依存のパターンに変わってしまっているので、時間をかけて修正していく必要があることも納得しやすいのではないでしょうか。
どんな病もいくつもの視点から理解する必要があります。摂食症を考えるときに、あらためて依存という視点をひとつ加えてみることの利点は、少なくないように思われます。