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心理学

誰かとともに生きる

 夏の暑さもピークに達し、今年もお盆の時期がやってきました。祖先の霊を供養し亡き人を偲ぶ大事な行事です。

 「盆」とは「盂蘭盆」という仏教行事に由来します。盂蘭盆の語源は、これまではサンスクリット語の「ullambana(=逆さ吊り、苦難)」だと言われ、亡くなったあとも飢えに苦しむ祖先に食べ物を備える行事だと考えられてきましたが、近年では、「盂蘭」の語源は「olana(=ご飯)」で、「盂蘭盆」とは「ご飯をのせた盆」であり、お盆とは祖先の霊との会食だとする説が有力になっているようです(ウィキペディア「盂蘭盆会」)。お盆で親戚が集まる和やかさを考えれば、新説を信じたいものです。

 残念なことに、コロナ禍の現状では、日々亡くなられる方がおられます。感染によって直接死に至る人もおられますし、それ以外にも、自ら命を絶たれる人が増えているという痛ましいデータもあります。「死」が少し身近になったような、不気味な影を感じます。

 奇妙に聞こえるかもしれませんが、自分で自分の「死」を想像することはあっても、実際に体験することはできません。死は、ほかの誰かの死に接することによって、その人の生きてきた姿とともに追体験することができるだけです。

 私たちは限りある命を生きていますし、だからこそ、今しかないこの瞬間を自分なりのやり方で生きています。それはすなわち、かつて生きていた祖先や知人の生と死に思いを馳せ、彼らの命とともに生きているということではないでしょうか。具体的な人の死を感じられるからこそ、今を生きることができるように思うのです。このような考え方は、「生命それ自身はけっして死なない」(V・v・ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』1940年/木村敏『分裂病の詩と真実』1998年)という言葉の、ひとつの解釈です。

 コロナ蔓延によって、私たちは人と人との距離を保つことを余儀なくされています。そのために、日々誰かが亡くなっているにもかかわらず、テレビの中だけの出来事のように感じられてしまうのかもしれません。生も死も具体性を欠き現実感が失われてしまい、逆説的に「死」が身近になってしまうのかもしれません。このような状況だからこそ、自分とほかの人の命を守る配慮を怠らず、人と人とのつながりを大切にし、一日一日を大事に生きていきたいと思うのです。

 今年のお盆は、帰省自粛、会食自粛が求められています。せめて自宅で、親戚や友達と連絡を取りつつ、懐かしい人との思い出に浸っておいしい料理を食べたいものです。